意見を出し合う中で
日々何かしら考えて我々は行動していますが、社会生活の中で他者と関わっていく中で、意見を出し合う機会があるかと思います。定期的な会議だったり、仕事の仕組みを作る話し合いだったり、家庭の在り方だったり、様々な話し合いの機会があるかと思います。
話し合いのとき、意見が一致しているときはさほど問題ないのですが、問題は意見が一致しないときです。考え方の相違は必ず起こってくるので、そのときにどの程度押すか引くかのような場面になってきます。
才能あふれる人間であれば、自分を貫きながら「私に投資しなさい。」というような立ち回りが可能かもしれません。しかし、私を含め大多数の凡人に属する人間に関しては、同じような立ち回りはできません。嫌われて終了です。
そもそも、「自分を貫くか、否か。」のようなことを考えている時点で、上手くいっていない状況、または迷いがあるのと、貫き通すだけのパワーを備えていない状況かと思います。
お願いをしないといけない立場の人が譲歩する
自分を貫くかどうか。基本的には、お願いをしないといけない立場の人が譲歩するという力学があります。シンプルにいうと力関係ですね。欲しがっている人ほど、自分を貫けない状態になります。
そして、大体のケースにおいて、お願いをする場面を分解していくと、根本には「お金」「時間」「誇り」に関する欲求があります。欲求の概ねの順番としては「お金」「時間」「誇り」の順でしょうか。
経済状況や理念など、人によって優先度は異なってきますので、一概には言えませんが、まず多くの人にとって重要なのは「お金」という状況かと思われます。
ちなみに、「やりがい」などは「誇り」に属する内容ですが、「やりがい」は洗脳的な方法でない場合、簡単に与えられるものではないのと、まったくの無給でやれるほどの「やりがい」はなかなか存在しないかと思います。存在したとしても、できる人はかなり資金に余裕がある人など限られた人のみになるでしょう。
その前提をもとに、社会生活に当てはめてみます。
仕事の意見が対立したときや金銭の貸し借りがあるとき
会社であれば、上司と部下の仕事に対する意見が対立したときは基本的に部下が折れないといけません。部署の結果に「責任」を持つのは上司であるのと、部下を「評価」するのは上司だからです。
これを分解していくと、力関係として、部下は「評価」が欲しく、上司は「結果」が欲しいです。上司もその上の上司から「結果」をもとに「評価」されるので、正確に言うと「結果」と「評価」は切り離せないのですが、「お金」に対して直接的に近いのは「評価」を与える側になります。
商習慣として、本来は対等であるはずなのですが、基本的に生活行動の起点となる「お金」を渡す側が優位性を持つため、発注する側の立場が上になりやすい力学を持っています。「評価」も同じくです。
プライベートで例えば「お金を貸してほしい。」という場面があった場合、ある程度の信頼がある場合は、少額なら気軽に貸し借りすることができると思いますが、信頼がない場合は気軽に貸し借りすることはできません。
貸す側が借りる側の生活態度やお金の使い方に対して不満がある場合は、様々な指摘が入ると思いますが、基本的にお金を借りる側はそれを受け入れなければなりません。
実際に貸す側の言うことをできるかどうかは置いておいて、「意見」はひとまず受け入れなければなりません。
反論してはいけないのです。反論しないといけないようなことがある場合は、その相手からはお金を借りてはいけないのです。お仮に金を貸してくれないとしたら、お金を貸す側に譲歩させるようなお願いをしているからでしょう。
さて、自分を貫くかどうかという話に戻ります。基本的に、支払いをする側が自分を貫くことに関しては優位性を持ちます。
そのため、暗黙の認められている範囲で自分が領域を決めて行動することになります。そのやりたいことが、誰かの力を借りる必要がある状態で、その誰かの言っていることを聞かないのはNG行為です。
暗黙の認められている範囲を捉える
暗黙の認められている範囲は常日頃変動します。
自分の欲しいものが、誰かの力を借りないと手に入れられないとき、それは貫いてはいけないときです。逆に、自分の欲しいものを会社であれば上司などが多く与えられない状態にあるとき、この関係は少し変わってきます。
特に「評価」を欲しがっていない部下に対して「結果」が上回っている場合も、上司が与えられるのは基本的に「評価」=「お金」が主なものになるので、「時間」や「誇り」を欲しがっている部下には優位性が少なくなります。
そうすると仕事をやってもらうお願いが聞きづらく、断られることが多いでしょう。もちろん、業務命令に背くような仕事のやり方はだめですが、与えられた任務の範囲でこなしている場合は強く言えない状態になります。
すると、自分を貫くことがやれる環境に少し近づきます。金銭的メリットを代償にすることで、結果を自分を貫くことに変化させるわけです。凡人でも自分を貫いている人には、こういった背景があったりします。
もちろん、ただの腫物でコミュニケーションコストがかかる、というだけの可能性もありますが、その場合も結果との兼ね合いで判断されるので、「評価」と引き換えに自分を貫くことができるようになります。
そして、自分を貫くことで別枠での「評価」がついてきたりもすることはするのですが、それはまた別の話とします。
欲しがっている分だけ自分を貫けない。これが暗黙に存在するルールです。至極当たり前といえば当たり前なのですが、日ごろ複雑化している人間関係においてはわからなくなることもあるでしょう。
それでも、そういったときには思い出します。「欲しがっている」度合いはどのくらいか?欲しいものがあるなら、その分だけ自分らしさは出せないですし、抑圧しないといけないことも多々あるかもしれませんよ、という原理に立ち返ってみるとよいかもしれません。