考えすぎといわれる
様々な課題がありますが、それを解決しようとするとあれこれ考えることになると思います。そして、会議などで話し合う機会があると思いますが、「考えすぎ」と言われるときはないでしょうか。
このとき、「考えすぎ」ということをよく言われる場合は、その通りで考えすぎです。自分が置かれているコミュニティの人々が考えなさすぎだとしても、それは相対的に「考えすぎ」です。
同じくらい考えてもコミュニティを変えた場合は、「考えが足らない」と言われたりするので、環境次第の部分と、役回り次第なところがありますが、自分がどのくらいの思考量になっているか図るといいでしょう。
考えすぎの状態はよくない
そして、「考えすぎ」と言われるとき、その状態を続けるとあまり良い状態にはなりません。「すぎ」という部分は、考えている内容を理解されることはないです。伝わっても、自分が伝わってほしいタイミングから随分後になってからになると思います。
とはいえ、どうしても大事なことがあって、「考えすぎ」の状態になっているのかと思います。伝わらないことが増えてくるから、余計伝わるようにどうすればよいかを「考えて」しまう悪循環に陥ってしまいます。
また、「考えすぎ」の弊害はあって、自分は「考えすぎ」るくらいなので、他の人も同じくらい「考える」はずだ。と考えてしまいます。しかし、大体のことにおいて、相手は自分と同じくらいの熱量や思考量で考えてはいないものです。
考えているポイントが異なったりするだけだったりもしますが、考えている熱量や思考量が合致することは、かなり稀で10人に1人どころか、100人に1人くらい、かつ内容も合致するタイミングだとさらに確率は低いでしょう。
そうすると、相手からすると、言葉足らずだったり、説明不足だったり、論理の飛躍のように捉えられてしまうことになるでしょう。これを理解してもらうことは、普通に仕事をする時間の何十倍もかかることになってしまいます。
そもそも、理解度のキャパシティも人それぞれ違いますし、得意分野も違います。考え「すぎ」の部分まで理解できることは、ほとんどないことを前提にコミュニケーションを図ったほうが得策です。
現実的に、関わる全員に対して理解してもらえるよう説明に時間を掛けることは不可能なケースが多いかと思いますので、結局のところ伝えられない。ということは、フラストレーションがかなりたまってしまうことでしょう。
対策その1 – あきらめる
そこで、取りうる対策としての1つめは、説明をあきらめるということです。自分と同じような状況で考えていない状態の人に説明をしても、考えが伝わることは今すぐにはないです。自分を他人に置き換えてもそうでしょう。
仮に自分が興味のないことを一生懸命取り組んでいる人がいたとして、その人が課題に思っていることや、詳細の考えは理解しきれないものです。とはいえ、ある程度の経験値から概要だったりなどは割と早く理解できるでしょう。
そうするとおそらく、最初の数分で反応がいまいちなことは、おそらくイマイチなことが多いかと。最初の数分で反応がイマイチ、説明をしばらく続けてもやっぱりピンとこない。という状況はもう説明を諦める必要があるサインです。
ただ、何かしらの必要な説明をしない、というわけではなく、考え「すぎ」のすぎといわれる部分を無理に伝えようとしないことです。なんとなく伝わればOKくらいの感覚で立ち回りを目指します。
これは、後々に考え「すぎ」の「すぎ」の部分が徐々に伝わっていったり、理解しようとする動きが出てきたときに備えての意図で、確率は低いものの、種を撒く行為にはなります。
そして、伝えておくべきことは理解度にかかわらず、アクションとして実行できる「どうしたいか。」「どうしてほしいか。」という部分だけを具体的にシンプルに伝えること。
なお、考えることをやめようとするのは、おそらく難しいでしょう。というのも、「考えすぎ」と言われてしまうタイプの人が考えないことはおそらくないからです。
自暴自棄になったタイミングなどはそういったこともあるかもしれませんが、基本的に考えることが癖になっている人は、考えることが無意識的に好きで、考え続けてしまうことでしょう。
なかなかコントロールが難しい特性になってきますが、この部分はうまく使っていく必要があります。
考え「すぎ」の部分はほかの人が考え及ばないこと。それは、逆に言えばチャンスとも言えます。ほかの人が理解できないことは、アイデアや行動に差をつけることができる点でもあります。
ただし、説明はできるものではなく、行動で何かを形にして初めて価値が生まれるものです。それは、「ビジネス」だったり、「ツール」だったり、「文化」だったり、「仕組み」だったり、自分で形にする必要があります。
なお、このとき覚悟しておかないといけないのは、コミュニティが考え「すぎ」の部分を理解してもらえないことで生じるデメリットや、自分で形にすることで生じる不都合は甘んじて受けるしかありません。
気になる点が少数のうちは、気になったもの負けになるのが、基本的な社会のルールです。そして、その気になっているものを形にして大勢が追従してきた段階で勝ちになるのが、これも基本的な社会のルールです。
対策その2- 丁寧な説明
そして、もう一つの対策は、丁寧に説明することです。こう書くと当たり前ですが、案外できていないので伝わらないことが多いと思われます。
例えば、テレビを見ながら夫(妻)や子供(親)がその内容についてのコメントに同意を求めたり、反応を求めたりする光景があるかと思います。
話しかけられているほうも同じくテレビを見ていればいいのですが、実際のところ何か家庭の仕事をしていたり、別のことをしていたりして、テレビの内容について振られても「「へぇ。そうなんだ。」」としかならないでしょう。
「へぇ、そうなんだ。」が欲しいだけなら問題ありませんが、おそらくコミュニケーションにおいて、「考えすぎ」と言われるような状態の人が答えてほしいことは、そうではなく具体的な情報量の多い反応だったりするのかと思われます。
そうなると、いきなりコメントをするのではなく、「こういった話があって、誰かがこう言っていたんだけど、私はこう思います。あなたはどう思います?」のような発信者からすると、テンポが悪いような伝え方をする必要があります。
何かを伝えようとするとき、発信者である自分が思考量では最も多いケースが多いでしょう。簡単な内容ならともかく、少し複雑な内容になってくると、理解度には大きな乖離がある状態がスタートラインとなります。
仮に人生論や一般論、知識、経験に影響する分野であれば、会社の役職でいうと上位者だったり、人生の先輩だったり、何かしらの先達のほうが思考量が多いこともありますが、そこから外れることに関しては自分の思考量が最も多いです。
そうなってくると、「子供にもわかるように説明する。」というのは、ものを伝えるときに必要な心構えだったりします。深堀りしたい話のときや、自分でも完全に理解しきっていないときは難しいですが、難しい言葉を使わずに伝えるように意識します。
このとき、相手の理解度、もともと持っている理解力、そういったことを考慮して、必要な「伝えたいこと」の前に必要な前提の説明量は異なってきます。子供でも年齢によって理解しているところはあるので、その説明は不要なようなものです。
ただ、それは理解していたとしても、時間的に難しいというのが、多くの人が抱える背景かもしれません。そのため、慌ただしい社会の中では一つ目の説明をあきらめるという対応方法を選択することが多いのかと思います。
考えすぎのタイミング
「考えすぎ」という状態になっているときは、コミュニケーションにおいて、人間関係において、工夫が必要なタイミングであることを教えてくれています。
自分のことに意識が向きすぎているという傾向があるなら、自分以外に意識を持っていくようにしてみたり、自分がその意識に持っていくために必要な相手と会話をしてみたり。
そして、悲しいかな、この状態は基本的には自分自身の問題ととらえ、割り切るしかありません。時間がたって、理解者が一人二人と増えていくまでは。それに、本当に考える必要がないことである可能性もあります。
そして、「考えすぎ」と言われるような状況というのは、おそらく解決が難しい状況という現実が背景にあります。そういったときは、目標とするゴールは引き下げたうえで、日々を淡々と行動して状況が変わるのを待つしかありません。
それでも、着実とできる行動はあるはず。それを見つけて着実に積み重ねていって、好機が来たときに一気に思うまま話しましょう。それではまた。